第18回:「鉄道という社会インフラの事故」

掲載日:2005年6月2日
執筆者:株式会社スクウェイブ
カウンセラー&マーケティング・
エグゼクティブ
武藤 哲
JR宝塚線(福知山線)の脱線事故が起きてからかなり経つが、しかし依然記憶に新しい。鉄道大国日本での、かつてないほどの甚大な被害規模であり、世界的にも大々的に報道された。被害に遭われた方々にお見舞い申し上げるとともに、不幸にも亡くなられた多数の方々のご冥福をお祈り申し上げたい。
しかし、大企業がらみの事故や災害の多くは 「人災」であり、そしてどの事例にも言えるのが、企業の隠蔽体質、そして効率優先の姿勢である。三菱自動車や関電の美浜原発にしても、今回のJRにしても、事故当初発表した情報が、詳細調査によって覆されることがままあった。また、関電は事故後も同型機の原発をなかなか止めようとしなかったし、JRは最 新型ATSの設置を待たずに宝塚線を再開しようとした。
それらを批判するのは簡単である。しかしそもそも私企業体とは利潤を追求する存在であり、かつそのために様々な情報戦略・戦術を活用する存在であるため、そのような性向をなんらかの施策でもって根治する、ということは本来的に難しい。結局、程度や倫理の問題として語られることが多い。
とはいえ今回の事故で驚くのは、JR西日本の、乗務員に対する規律の厳しさである。
日本の鉄道のような緻密なダイヤを組んで実際に運行していくことの厳しさが如実に表れている話であるが特に驚くのは、そのペナルティの多さと厳しさである。ここで詳細には書かないが、日勤教育、反省文・決意書など、驚くほどのしつこさと入念さの再教育体制、そして給与・賞与カットなどの罰則は、明らかに一般の人々の運転士に持つイメージを上回っている。
昔も今も、子供たちの間では鉄道の運転士は憧れの職業である。大人になってからもその憧れが継続したのか、「電車でGo!」なんていうゲームも一時期流行した。私の知り合いにJRの運転士経験を持つ人がいるが、それで幼稚園児の甥に「新幹線の運転手に友達がいるよ」と言ったことがある。そのときの甥の、私に向けるあの羨望と憧れのまなざしは忘れられない。(いや、当然私が偉いわけではないのだけども(笑))
でも、運転士の勤務実態の厳しさは、そういった憧れの範囲を飛び越えた「現実」である。
社会を支えるインフラとしての、鉄道の運行システムの維持に対する使命感はわかる。だがその規律の厳しさからにじみ出ているのは、「人間は厳しく対処しなければ言うことを聞かない」という性悪説的な発想である。
でも人間は当然、限界ある自我を持つ生き物であり、その時々の体調や心理状態が行動に深く影響してく
る。常日頃そのようなプレッシャーを与え続けられた場合の精神状態とは、はたして正常であり続けられる
ものなのだろうか?はなはだ疑問である。
しかし今回の事故は他人事ではない。ITマネジメントの世界でも、システム障害が社会に大きな影響をもたらすことがあるのは周知の事実である。数年前の金融機関のシステムダウンの例を出すまでもないだろう。いまやITは企業の重要なインフラのひとつであり、それはつまり社会のインフラでもある。
インフラ化された技術というのは、短いプロダクト・イノベーションの時期を終え、プロセス・イノベーションの累積の時期に入り、コストや効率性が重視されることとなる。インフラが持つべき安全性・信頼性と効率性。その二律背反の図式がここで出来上がるのである。
そのような中で、たとえばいまでも火のつくようなシステム開発プロジェクトが存在し、なんとか納期内に収めようとエンジニアたちが、厳しい要求のもと、深夜残業・徹夜作業をして乗り切ろうとする事例が後を絶たない。
しかしそのような状況下では生産性も低いし、何よりミスや重複が多発しやすい。
ミスが発生するのは仕方がない。しかし重要なのは、コスト効率性を追求しながらも、システムとしての安全性・信頼性を確保するマネジメントの仕組みを考えることである。そして実際にはそれは、ミス発生のリスクを減少させる防衛 策と、発生後のきちんとした対処法、そしてそれらを可能とする、透明性の高い日々の作業ルールの確立と実施によって実現される。
だが、思うに、本当の意味で安全なシステムとは、そのオペレーションの担当者がいくぶんかの余裕を持って作業をできるような、バッファをきちんと考慮した仕組みであるのではないだろうか?そうした中で、個々の担当者の創発性 が発揮され、新たな革新的な仕組みが創造されることで、将来的なリスクの回避もまた担保しうるのではないか。
ルール化、プロセス管理をきちんとしながら、各担当が余裕を持って仕事ができ、自由な発想・想像力を発揮できるようなITマネジメント環境を作ること。そのお手伝いのほんの端っこにでも私自身がいるとすれば、幸いである。





