第17回:「フジテレビとライブドアの提携は、誰にとって価値があるか」
掲載日:2005年3月31日
執筆者:株式会社スクウェイブ
代表取締役社長 黒須 豊
ライブドアの堀江氏は、新たなメディアとしてのインターネットと、既存メディアとしてのテレビとの融合を進めたいのだと言う。
IT 経営アナリストとして、この問題に意見を求められることが増えてきた。今回はこの件で個人的な見解を述べてみたいと思う。
まず、ラジオからテレビ、そしてインターネットをメディアという同じ観点で比較することを前提としたい。というか、堀江氏もマスコミもその論調なので、この論調に沿う方が読者も理解しやすいだろう。
大雑把ではあるが、一般的にラジオは音を伝えるメディアであり、それに対してテレビは映像を伝えるメディアと言われている。厳密には、テレビは音声も伝えるし、テレテキストなどもあるが、この表現は概ね妥当だろう。
ところで、インターネットとこれらの既存メディアとの差異は何か。堀江氏は第一に双方向性(interactive communication の意味で)を挙げている。しかし、どうも、ぴんとこない。
それは、堀江氏が、インターネットが何を伝えるメディアなのかを定義しないまま、単に、仕組みの利点を挙げているからである。インターネットを新たなメディアと謳う以上、もっと積極的に、仕組みの利点よりも、そのメディアが何を伝えるものなのかをアピールして頂きたい。
そのアピールが十分あれば、たとえコメントの一部しか報道しない既存のメディアからの情報であっても、その真意は皆に伝わるはずである。
ここで、学術的なメディア論を展開するつもりは毛頭ないが、とにかく、堀江氏は、いきなり双方向性などと言い出すから話がおかしくなるのである。双方向性は、あくまでメディア上を流れるコンテンツの往来の仕組みの話であって、コンテンツそのものではない。オンデマンド配信も検索エンジンなども全く同様である。
ちなみにライブドアでも Yahoo! でも何処でもいい。インターネット・ポータルを覗いてみよう。何かテレビでは絶対得られないコンテンツがあるだろうか。
ニュース、天気、占い、ショッピングなどなど、実はほとんどテレビと差異がない。流行のブログなどは、確かに従来のテレビでは実現されていない機能である。しかし、これも双方向性を活かしたリモート・データベースを利用する機能であって、メディアとして見るならば、テキスト、ないし添付の画像イメージが流れているに過ぎない。
大手の Yahoo! 、楽天に対抗するため、自らのポータル上に流すコンテンツを拡大する上で、フジテレビとの提携は、インターネット・ポータルとしてのライブドアにとっては大変有効だ。サイト上でフジテレビの厳選した番組を過去に遡って見られるとしたら、確かに有益だろう。
彼のホンネはライブドア側の価値向上であって、テレビ側の価値がどのように向上するかはどうでもいいのである。フジテレビがライブドアと提携しないと提供できないコンテンツなんて、実はほとんど無い。
私は、このライブドア側の戦略自体は経営学的見地から間違っていないと思う。明らかに彼のやり方はスマートではないが、Yahoo! に追いつくための戦略として、今回の提携指向は、ごく自然だと思う。
深く考えていない人は、何となく、2つのメディアが融合すればきっと合体して素晴らしい別のメディアができると思う節があるが、これは明らかな間違いである。
今回の話は、音声しか流さないメディアと、映像しか流さないメディアが 融合すると2つの内容を融合した新たなメディアが誕生するというような話ではない。ライブドア側から見れば、従来からテレビのような動画を配信することも 可能だ。特段メディア融合というような大それた話ではなく、フジテレビの番組などのコンテンツを手に入れるということに終始する。しかしその価値は莫大で ある。
一方、フジテレビ側から見れば、フジテレビ自身、既にインターネットの利用は施行中であり、双方向性の重要性も認識している。ライブドアとの融合で特段新たなコンテンツを流せるようになるとも考えにくい。さて、あなたが、フジテレビの経営者ならどう考えるだろうか。
最後に、社会現象化した扱いを受けているホリエモンについて、ひとことだけ感想を述べるとすれば、彼のスタイルについてである。彼は、古い概念に囚われたくないと言い、スーツも着用せず、T シャツルックを貫いている。
まず、古い概念に囚われたくないという部分に関しては私も全く賛成である。しかしである。古い概念に囚われず新たな基準を作りたいなら、もっと格好良くしてもらいたい。最近はテレビ慣れして、少しましになってきたが、最初の頃の格好はひどかった。古いものを壊して新たな基準を作りたいのなら、最低限、古い基準よりも格好良い基準を提示すべきである。
格好良くない人間が、古い基準に囚われたくないなんて言ってみても、自分がダサいことの負け惜しみにしか聞こえないのである。